2025年3月29日土曜日

前頭葉での理論

実に面白くない。
理論、理屈…
過去からの踏襲をあたかもそれこそが常識であるという意味不明な理論。
なぜ後頭葉を使わないのか、なぜ可能性における第六感を使わないのか。

考え方に柔軟性が無く論理での構築しか出来ない。それそのものが悪いとは全く思わないが、それしか使わない思考に疑問を感じる。

なぜ両方を使いながらの思考にならないのか不思議ではあるが、それが一番簡単なんだろうなと思う。大切なのは今を大切にしているのか、他人のことや周りの視線ばかりに気を取られて自分が何者であるかには目を向けないのはとても勿体無いことだと思う。

無限の可能性がありそれを活かして生きて行きたいと私は常々思う生き方であり続けたいだけで、なぜ、だから、でもの生き方は好きな生き方では無いだけなのだ。

2025年3月28日金曜日

命と書いて柱

 外の風がとても強い。

隙間の多い楽龍時は室内の風鈴が美しく鳴り響く。


楽龍時の上空では鷹とカラスの攻防をよく目にする。鷹を追い払おうとカラスが群れて鷹に襲いかかるが鷹はいつも反撃をしない。するのは高度を上げるだけだ。するとカラスは酸欠になるのか自然と鷹の周りから居なくなる。実に単純で頭がいい。


私は音楽、ベースで誰かと比べて1番になりたいと思うことは無い。


自らの作った音楽ですら自ら以上に表現出来る者も人気者になれる者もいることを知っているから。


自分が今の自分であるための音楽をやるだけだ。


そうしていたらカラスはいなくなっていた。


モノの数え方には意味がある。

死んだ後に残ったものがそれですよね。

魚は1尾、鳥は1羽、牛や馬は1頭、人は1名…。

では神は?…柱

人の中に神は宿っている。神とは何か…生かされし今鼓動をし続けている命こそそれでは無いかな。先祖代々たくさんの人たちがあるお陰で今の命がある。つまりたくさんの支えがあって今がある。そんなたくさんの命に支えられて今があるから柱というのかな、と思った。現生においても同じく周囲の人たちに生かされて立っている。そういうところから神=命=柱となったのかなと思った。手を合わせるという行為も自分の中に柱が立つのを感じる。


そう考えると、大黒柱だけでは家にはならない。

柱2本では空間は生まれない。最低3本無いと空間は出来上がらないですよね。もし4本あれば立派な空間が出来てそこに意味を持たせることが出来る。ここで気付いたのは柱に意味がある訳ではなく空間に意味があるということだ。

台所、というのも4本の柱の名前ではなくはしらを立てることで生まれた空間の呼び名であると気付きました。柱には命があるが空間には命は無い。これこそ究極の音楽の在り方だと確信した。

大黒柱と普通の柱が3本あればどんな部屋にでも出来る。

2025年3月2日日曜日

3月になってしまった

 ひとりで生きていける。そういう人たちの強さが私も欲しいな。

自分が自分らしくとはいえ、自分が何者かがわからないうちはそれって意味を持たないだろうなぁ。

人生あと10〜20年。

何をしようかな。