2024年12月7日土曜日

覚え書き①

 私の中にある二つの顔の音楽。

(こんな長文は初めて。流してくださいね)


「雲が降りる庭」

静かで穏やかな美しい景色に見えたり、「時が滴る」のようにただ死の淵を歩く絶望感だけでは無くいわゆるどん底の経験などからなる直接的な心描写。


そして

「津軽じょんから」や「素戔嗚尊」などの神的というか、自分から離れた精神的な心描写。


大きく分けると私の音楽はこの2つ。


そしてこれは批判を買うかも知れないが一般的に言う音楽のベース(ライン)、ハッキリ言ってあれは私としてはなんというのかあまりにも精神という観点からみて、あくまでも私の音楽の視点から見ると、とてもかけ離れて過ぎていてもはや音楽には感じないことがある。


そして、とても偏って感じる。

良し悪しがハッキリすることで、ある意味洗練される部分もあると思うが自分の心との呼応の必要の無い世界観のところにあるように思う。


あれはカッコいいよなぁ…

そう思うベースラインや曲は私もたくさんあるしそれを真似して弾いたり作ったりすることもある。しかしこれは演奏の枠を出ることの無い追求だと思う自分がいる。


私の音楽は、いにしえから未来へ脈々と永遠に続いている自然体の自然界にあるもので、受動的な音楽と、ただそこにあるものの音楽描写なので、決して流行ることは無い。反面廃ることも無い。たとえ私の音楽が無くなったとしても皆、何かと接することがあればそこになんらかの感情が生まれ、また自然はそのまま全く様々なことを意図もせずに動いて行く。

決して無くなることの無い音楽だと思っている。


様々なメディアでもてはやされている音楽は音楽全体から見ればほんのごく一部のものに過ぎないとても小さく、顕微鏡を皆で覗いて喜んでいるに過ぎない。しかし私たちはその顕微鏡の中で生きているのも事実なのだから仕方がない。


もし、音楽が目に見えるとしたらそれは顕微鏡で小さなところを覗いて見える世界だけ(もちろんこの世界が素晴らしく奥深いことが前提での話)ではなく天体望遠鏡で宇宙を見るようなものだと私は思う。


人間中心の理想的音楽はこれからも加速して行くことだとだろう。カッコいいと思うメロディ、リズムを様々な機械や知識、演奏技術の鍛錬によって作られて行くことだろう。


しかし、それとはまた全く違うところにも音楽の存在があることに気が付きより自らが自然体で音楽を取り入れていることが最も尊いことに気付けることだろう。


皆、生まれながらに音楽家であり演奏家であることに。。。


たまたま私が神から与えられた神器が6弦ベースであるのでそれを〇〇らしく弾く必要は全く無いし誰からも求められることも無い。故にとても孤独だ。ベーシストなのにだ。


しかしなぜだかわからないがやらなければならない使命のようなものを感じてやり始め早30年以上の月日が流れ裕福ではないが音楽家として活かして貰えていることに感謝します。


今私(皆さん自身もね)が生きている証をたくさんの方々が作ってくれている「今」に心から感謝します。


音楽に活かされていることを日々感じて🙏

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