これからは6弦ベーシスト界のマエストロという冠に恥じないよう、より一層楽しんで行こう。
共演者の方々には悪いが、そろそろ行かせていただきますね。
楽しみにしていて下さい。
キーボードやピアノを見ると無性に腹が立って仕方がない。。。
その理由が全くわからずにいた。
そのヒントを貰うという奇跡に出会した。
「私はピアノは楽器(神器)とは思わない」と勇気を出して吉岡龍見氏に話した。龍見氏から思わぬ返事。「私もそう思う」と…
理由はともあれ、私はその言葉に勇気と確信めいたものを感じた。
そしてまた別の角度で別の人に「ベートーヴェン」という言葉が来た。
それを聞いた瞬間、何かが音を立て、まるで巨大な氷河が海へと溶け落ちて行くように様々な事柄が肝に落ちた。
歴代の音楽家たちから称賛の拍手と肩を叩かれハグされたような感触が過った。
音楽に少しは応えて行ける自分になれたのか。。。
マエストロたちの待ってるあの空間へ。
既に始まっている自分史にとってはかなり大きなターニングポイントになることは間違い無さそうな予感がする。
今日の話しは私の過去を知る人のみにしかわからないだろう。
それを話してどうこうということは今は関係ない。
ただはっきりと分かったことは私にはキーボードもピアノも要らない、ということだ。
先日のバースデーはコンサートが中心だったので、演奏者としては満足でした。
11日の楽龍時でのバースデーはなんとも懐かしい子供時代の文化祭のような手作り感満載でこれはこれでとても楽しかったですね。
ケーキはどこからどうみてもプロ!ひーちゃんのお手製、オープニングはなおちゃんの呼びかけでチアの有志メンバーがわざわざ来てくれ、まさかのサプライズで川口さんと咲那ちゃんが会社を休んでまで来てくれた。それぞれがみな歌や楽器などの出物を披露してくれました。
もう、誕生日会は幼少期からずっと続いているので当たり前になってしまっているけど、特別なことなんだよね。
8日は兎にも角にも大変だっただろうなぁという思いがとても伝わって来て、無理にやらなくても…と思ってしまったけどどうしてもソロを皆様に聴いて欲しい!というよしみさんやスタッフの方々からの要望でやることにしました。
今でもなんか胸に引っかかるものがあるんだよなぁ…なんだか今はまだわからないけど。
オープニングは大屋勝博・鼓 麻希ペアによる極上の社交ダンスからスタート。ため息の出る美しさでしたよね!
次は主催者のよしおかよしみさんとのデュオ。竹田の子守唄からスタートしたのですがことの他、いい感じでした。長くやってるとだんだんと良くなるものですね。
続いては、克とのデュオ。これは安心安定かと思いきや眠くて孫が泣いてしまい2曲でストップ。急きょLa Chazzにバトンタッチ!これにはちょっとメンバーを焦られせてしまいましたがさすが頼もしいメンバーですね。即対応して下さりホッとしました。これが終わって休憩。
二部で再度、克との安心安定のデュオ。
そしてソロタイム。今回は最後にじょんからで締めた後にアンコールで「ファルコン」をバンドで演奏。
自分としてはまぁ良かったかなと思っていたけど、先日も書いたけど、どこをとってもイマイチなフィードバックしか無いのでソロはもういいかなぁって。2025年2月1日にもソロを1曲と言われてるけど地域性なのかなんなのか、あまりウケないんだよね。
STUDIO月の蛙presents 重廣誠バースデーライブ、この日のためにご尽力尽くしてくださった皆様、本当にありがとうございました。
という割にはとても終始アウェイで正反対の1日だったなぁ。お昼も自分以外は皆一緒に食べててオレはひとりだったし、記念写真も真ん中に呼ばれるどころか声もかけられず端っこでなんか逆に一緒に撮るのが申し訳なく思った。
演奏は精一杯したので、悔いはないかな。
けどお客様の反応を主催者に聞いたら、とてもそっけ無い返答しかなく、感動の薄さしか伝わらないコメントしか返ってこなかった。
確かに演奏終わったあと、おめでとうを言いに来てくれたのは2.3人。
ホームラン級のスウィングで盛大な空振り三振 笑。
色々あるんだろうな。。。色々
まさにアウェイの洗礼。
ソロは辛いよ おっかさん。
次に向かってまた頑張るぞ。
どんなジャンルの音楽でもさ本気でやらなきゃ面白く無いんだよな。
どんな静かな曲でもさ。
全てを出し尽くさなきゃ面白いものになんか成るわけ無いんだよ。
綺麗事の音楽が多すぎるよ。
オレはそういう音楽は嫌いだな。
少なくてもオレの師匠たちは皆、命懸けの音楽やってるから滅茶苦茶カッコいいんだよな。
みんな賭けるものが小さすぎだよな。
やっと買ったカップ麺1個をさ3日かけて食べたこともあるしさ、バンとかじゃ無い普通の軽自動車の中で何ヶ月も生活したこともあったよ。家が無くて。
地を這うような生活だったことなんて腐るほどあるよ。
それくらい本気で音楽で食べて行くことにこだわった生き方して来たよなぁ。
それが今では税金数百万納めたりさ古いベンツ乗ってさ。
少なくてもオレの周りにはオレを超えるベーシストなんていないぜ。どんなにオレが無名なベーシストでもさ。
Wikipediaなんかにも世界の6弦ベーシストなんて紹介されてるけど、そんなのどうでもいいくらいちっぽけなことだよ。だって覚悟が違い過ぎるよな。明日食べるもののためにこっちは必死でさ音楽やって来たんだから。
自分で自分を褒めたいし、オレはオレがとっても自慢だよ。
たまにはいいよな。そんなこと言っても。
私の中にある二つの顔の音楽。
(こんな長文は初めて。流してくださいね)
「雲が降りる庭」
静かで穏やかな美しい景色に見えたり、「時が滴る」のようにただ死の淵を歩く絶望感だけでは無くいわゆるどん底の経験などからなる直接的な心描写。
そして
「津軽じょんから」や「素戔嗚尊」などの神的というか、自分から離れた精神的な心描写。
大きく分けると私の音楽はこの2つ。
そしてこれは批判を買うかも知れないが一般的に言う音楽のベース(ライン)、ハッキリ言ってあれは私としてはなんというのかあまりにも精神という観点からみて、あくまでも私の音楽の視点から見ると、とてもかけ離れて過ぎていてもはや音楽には感じないことがある。
そして、とても偏って感じる。
良し悪しがハッキリすることで、ある意味洗練される部分もあると思うが自分の心との呼応の必要の無い世界観のところにあるように思う。
あれはカッコいいよなぁ…
そう思うベースラインや曲は私もたくさんあるしそれを真似して弾いたり作ったりすることもある。しかしこれは演奏の枠を出ることの無い追求だと思う自分がいる。
私の音楽は、いにしえから未来へ脈々と永遠に続いている自然体の自然界にあるもので、受動的な音楽と、ただそこにあるものの音楽描写なので、決して流行ることは無い。反面廃ることも無い。たとえ私の音楽が無くなったとしても皆、何かと接することがあればそこになんらかの感情が生まれ、また自然はそのまま全く様々なことを意図もせずに動いて行く。
決して無くなることの無い音楽だと思っている。
様々なメディアでもてはやされている音楽は音楽全体から見ればほんのごく一部のものに過ぎないとても小さく、顕微鏡を皆で覗いて喜んでいるに過ぎない。しかし私たちはその顕微鏡の中で生きているのも事実なのだから仕方がない。
もし、音楽が目に見えるとしたらそれは顕微鏡で小さなところを覗いて見える世界だけ(もちろんこの世界が素晴らしく奥深いことが前提での話)ではなく天体望遠鏡で宇宙を見るようなものだと私は思う。
人間中心の理想的音楽はこれからも加速して行くことだとだろう。カッコいいと思うメロディ、リズムを様々な機械や知識、演奏技術の鍛錬によって作られて行くことだろう。
しかし、それとはまた全く違うところにも音楽の存在があることに気が付きより自らが自然体で音楽を取り入れていることが最も尊いことに気付けることだろう。
皆、生まれながらに音楽家であり演奏家であることに。。。
たまたま私が神から与えられた神器が6弦ベースであるのでそれを〇〇らしく弾く必要は全く無いし誰からも求められることも無い。故にとても孤独だ。ベーシストなのにだ。
しかしなぜだかわからないがやらなければならない使命のようなものを感じてやり始め早30年以上の月日が流れ裕福ではないが音楽家として活かして貰えていることに感謝します。
今私(皆さん自身もね)が生きている証をたくさんの方々が作ってくれている「今」に心から感謝します。
音楽に活かされていることを日々感じて🙏